赤十字大阪府支部が育てた子供「人間の根源を知る」4
16歳。
この時私は高校1年生。
そして通ってる高校は加盟校ではなかった。
加盟校ではない子供が青少年赤十字の活動を本来することはできなかった。
しかし、私が母校の中学校でどうしてもやりたいと行った気持ちを汲んで
大阪府支部はそれを許してくれた。
後に聞いたがこのことで話し合いが行われたらしい。
「子供自身が言ってきてるのに参加できないのはどうなのか」と。
JRCでは合宿の最終日に学校ごとで集まりその学校の子供たちは
この合宿で学んだことを学校に持って帰った後どう活かすかを話し合う。
そしてその話し合いの内容を各学校で発表する時間があった。
前述した通り、私の学校は加盟校ではない。
ということは持って帰っても学校で生かす手段も何もないのだ。
私は悩んだ。
当時は私の通っていた高校名が大東高校といった。(現・緑風館高校)
私一人でいいのか?ということを悩んだ。
理由は森さんと安原さんが私に何度も教えたことがある。
「自分一人で終わらせないこと。次の代に引き継ぐこと。」
この意味は、
阪神大震災があった時、今の子はあまり知らないかもしれないが、
1月17日朝5時45分。すごい地鳴りとともに揺れた。
私は天井を見ていた。当時小学3年生だった。
テレビをつけたときには、高速道路は割れ、地面は割れ、そして次の日の朝になるまで燃え続けた。
神戸はたった1日にして全てが燃えた。当時神戸は酒蔵で有名なところだった。
その酒蔵も燃えた。何もかもを燃やし尽くした。
夜、衛星中継で日本を上から見たときに神戸だけ明るかった。
地面も何もかもが割れた神戸だけが異様に明るかった。
全て火だった。炎だった。
この時、森さんはこの現場で救済活動をしていたらしい。
「この経験を活かさなければならない。次につなげればならない」と。
安否確認に救護活動、次々に運ばれる人、人、人。
悲しみは悲しみで終わらせることができる。
しかしそれを超える気持ちは、その悲しみを教訓とし次に同じ様なことが起きたとしても
被害を最小で留めること。そして叶うならば二度と同じことが起きないために
対策を練り、出来ることから始めること。
例えそれが途方もない時間がかかったとしても、それでも未来に託せるだけのものを築き上げていること。
こういういろんな意味があって
「自分一人で終わらせないこと。次の代に引き継ぐこと」
と私に教えた。
それはもちろん「私たち」にだ。
この意味をずっと考えた。
私の高校は加盟校ではない。私だけがこの活動に参加するのか?
「私だけ楽しかったらそれでいい」なのか?
私にできることは何か?
それを考え、そして思いついた。
その思いついたことを紙に書きまとめ、
そして大きなポスター用紙に私が発表する趣旨を書いた。
出来上がった時、まだ残り時間が二時間もあった。
普段人より時間が足りなくて焦りまくって走ってる私が
時間が余るという意味不明な状況ができた。
しかしやることが全くなかった。
ので、私はその場で寝た。
実際、高校生はやることが多い。夜中まで新聞を書いたり話し合ったりと
真夜中の1時2時まで作業することなんてザラだった。
眠たかったので私は寝ることにした。
流石に他校の同期も見てられなかったらしく
「あやちゃん、お願い、起きて。寝んといて」と言ってきた。
しかも同期二人して。
それでも私は
「やれることは全部やった。」とだけ言い残して構わずに寝た。
後になって聞いたが、居ても立ってもいられなかった同期の一人が
「森さん!安原さん!なんとかいうてくださいよ!こんな大事なときに寝てるんですよ!」と
言いに行ったらしい。
そのとき森さんと安原さんは彼に言ったらしい。
「いいから、最後までちゃんと見とけ。最後まであいつが何をしようとしてるのかを見るのが俺らのできることや」と。
同期のその彼は
「嘘やん・・しかもあの安原さんが怒らへんなんて・・」と思ったらしい。
「冷や冷やしたよ・・ほんまに・・」と後になって教えてもらった。
発表に時間になった。
あたしの学校の番になった。
私の学校というかこのときは個人だったので「私の番」というべきかもしれないが。
先生にあらかじめお願いしていた。
校長先生が卒業式などで使う教壇があるのだが、それとマイクを用意して欲しい。と。
先生はその通りにしてくれた。
その教壇とマイクの前に立った。
小学5年生から高校3年生の子供たちに、各校の先生たち。そして森さんと安原さんたち含めた赤十字職員たち。
ざっと100人ほどいたと思う。
私は言った。
「私の高校は加盟校ではありません。なので学校に帰っても発表できるところもそれを活かすところもありません。
なので、まずこの夏休みが終わった後、二学期が始まったら
校長先生のところに行って直談判で加盟校になって欲しいと伝えようと思います。
そして必ず、来年この高校を加盟校にして後輩を連れて帰ってきます。」
そう発表した。
(いや、本来はもっと喋ったが省略するとこんな感じ)
次に繋げよう。
私だけで終わらせないでいよう。
もし加盟校になったら、私が卒業したりした後もこの活動が続けれる。
私の様に「やりたい!」と言った子がいらぬ壁に邪魔されることなく真っ直ぐに思いの丈を活かすことができる。
それならこれをやろう。
例え笑われてもいいし、変な人扱いされてもいい。
未来でもこの活動が続いて欲しい。
私の様に幸せな気持ちになる子が増えて欲しい。
そう思って発表した。
宣言通り、私は二学期になって校長先生のところに行った。
校長室で
「校長先生、赤十字社の加盟校にしてください」と頭を下げた。
校長先生は
「えっと・・・加盟校になったらどういうことがこの学校でできるの?」と聞いてきた。
ごもっともだ。
なので私は
「詳しいことはわかりません。なのでこちらが大阪府支部の電話番号で、JRCの担当が森さんと安原さんという方になるのでその方から説明をしてもらえたらと思います」
と紙に書いて渡した。
もちろん、当時はもっと雑に言ってだろうしもっと雑な態度だったと思う。
それでは、と退席しようとしたときに校長先生は私に言った。
「君の母校の中学で校長先生をしている方がいるだろう。実は言うと僕はあの人の後輩なんだよ」と。
「?????」
どう言う意味だろうかと思ったが、私はそのまま校長室を後にした。
その意味は大人になった今ならわかるが、当時16歳の脳味噌では難しかった。
後になってこれも聞いたが、校長先生はすぐに電話をしてたらしい。
そして森さんと安原さんはこの大東高校に来て説明をしたらしい。
そんなことは露知らず、私は秋の日差しを浴びて授業中は寝ていた。
晴れて、大東高校は加盟校になった。
本当に私は喜んだ。文字通り飛び上がって喜んだ。
そして校長室で
「さて部活動にするか、どうやって活動する場所にするか」と言う話になった。
私は
「将来、看護師になりたい子や医師になりたい子、そうじゃなくても医療のことがしたい子、子供と触れ合いたい子
そう言ういろんな子たちが活躍できるクラブにして、その中にJRCも入れたらいいんじゃないかな?」
と言う方針が決まり、顧問が決まった。
そうやって季節が過ぎ、
春、私は高校2年生になった。
ある日校長室に呼ばれた。
「あのね、赤十字の活動がしたいって言うてる新入生がおるんよ。行っておいで。
1年7組の清水田くんって言うねん」
そう言われ、私はその教室に行った。
「すみません、清水・・・だ・・?くんいますか?」と聞いたら
奥の方から出てきた。
見上げるほど身長の大きな子だった。
見た感じチャラそうだが、身なりなど志と比例しないものだ。
彼は言った。
「先輩、赤十字って何をするとこなんすか?」と。
私ははっきり答えた
「口で簡単に説明できん。だからまずは夏の合宿に参加して」と。
この年、私は大東高校を加盟校にしてそして約束通り後輩を連れて
JRCの合宿場に帰ってきた。
赤十字大阪府支部始まって以来、初めて子供の力で加盟校にしたときだった。
現在、大東高校は改名し緑風館高校という名になっている。
今も加盟校であり、そしてJRCに参加する子供たちはいると聞いた。
「自分のところで終わらせないこと。次に繋げること」
この教訓はのちの私の人生を常に動かす言葉になっている。
そして私のことを信じてついてきてくれた後輩の
清水田くん(通称・しげ)には感謝しても仕切れない。
しげがいてくれたおかげで、どれほどその場の子供たちに活気が生まれただろうか。
しげのおかげで、私は
「後輩、自分よりも年齢が小さなものに対してどう接したら良いか」を
目の当たりにすることになる。
しげは、見た目はチャラいかもしれないが、面倒見が良かったのだ。
子供が好きなやつだった。
これがしげの持って生まれた才能だ。
しげの「できる」ところがそれで
私の「できない」ところがそれだった。