文学の話。1
なんだろう。
これまでの人生で子供の時から自ら
「本を読みます!」と言い回ってきたことはないのだが、
趣味は何?と聞かれた時に
「読書と音楽鑑賞」と答えてきたからだろうか?
私が胸を張って「オタクです!」という部門は漫画のことで、
漫画のことならほんまにオタクやと自負してる。
けど、自分が読書家かと聞かれたら「?」となってきた。
いや、だって本読んでる人ってほんまにすごい量で読むからね。
それこそ夫なんてえげつない量読んでるし
「え?速読?」いうぐらいのスピードで。
で、前振り長なったけど、文学の話をしたいと思います。
これ、よく驚かれるんだけど、
太宰治、村上春樹、芥川龍之介、三島由紀夫、夏目漱石
という、基本的に
「純文学」というものは読んできてません。
ただ、授業で習ったものはもちろん覚えてるよ。
まぁ、そんな純文学、文学の読書感想文というものを書いてみようと思う。
(そんなに読んでないのに)
ここ最近で読んだ本で、8月?9月かな?
三宅香帆さんの「バズる文章教室」を読んで
(というかこの方の処女作を本屋さんで立ち読みで読破した時にめっちゃ面白かったから、一緒に並んでたこちらの本を買ったの)
その中に、
芥川賞作家でもあり芸人でもある又吉直樹さんの本の紹介があって
(私の中で愛称・又キチと呼ばせてもらってる。)
その紹介文を読んで、
「よし!私もこの人の本を読んでみるか!」となって、
翌日に図書館に行って、マタキチの本を借りた。
・・・・しかし火花と劇場だけは絶対に借りなかった。
(その時はまだ「人間」が発売されてなかった)
「夜を乗り越える」
「芸人と俳人」
「東京百景」と借りた。
大爆笑した。
ほんまに面白かった。
あまりの面白さに、
「第2図書係補佐」は購入した。
必ず鞄に入れて持ち歩いてる。
辛いことやきついことがある時に読むようにしてる。
爆笑して陰気な気持ちが吹っ飛ぶから。
それぐらいに好き。
で、この又キッチーが愛してやまないのが、私がここで書く必要もないほど有名な話だけど、「太宰治」で、
この太宰治を読まないように人生を選んできた。
この理由は芥川龍之介も全く同じ。
まず、中学生の国語の授業の時に「走れメロス」を習うことになった。
で、この国語の先生が本当に楽しい人で、
新しい題材に入る前に授業の一時間全部使って、まず著者がどんな人か
どんな人生だったかを教えてくれる。
もちろん、太宰治のことも、懇切丁寧に教えてくれた。
「えっと今日からこの「走れメロス」のことを勉強して行きますが、その前にこの太宰治という人の説明をします。この人は、東京大学に行きます。そして中退します。
で、まず1回目の自殺未遂をしますが失敗します。しかし次に2回目の自殺を図りますが失敗して一緒に心中した女性だけが死にました。3回目の自殺が玉川というところで入水自殺しました。これが未遂に終わりませんでした。
ここで太宰は死にました。」
ここだけ聞いただけでもクラスの同級生が
「いや、どういうことやねん。どんだけ自殺したいん?!」と突っ込んでいた。
全くもっての同意見だった。
私は
「2回目の人は彼女だけ死んじゃったの?3回目はひとり?」と先生に聞いたら
「2回目も3回目も心中です。3回目でようやく太宰は死ぬことができました。」
びっくりしすぎて言葉が出ない。
出た言葉は
「はぁ?!」と大きな声だけだった。
先生はさらに話していく。
「今回の話は走れメロスですが、すごく極端な話をすると、この走れメロスだけが唯一、
この太宰作品の中で明るくポップに希望が持てる作品です。
それ以外の作品は、とてもじゃないけど中学生に教えれる内容ではないんです。」
と言いながら
「今から書くのが彼の代表作です」
と黒板にチョークで書いていった。
「富嶽百景」「人間失格」「新ハムレット」「斜陽」と。
「いや、人間失格って!とんでもないタイトルやん!」
とクラス全員で突っ込んでしまった。
忘れもしない。先生は、
「どれほど彼の小説が暗い作品かというと私が高校3年生の時です。
私は太宰の「斜陽」を読んでいました。すると国語の先生に呼び止められました。
言われた言葉はこうです。
【大学受験の手前で読む作品ではない。受かるものも落ちる。だから他の本にしなさい】と。読むことを止められたほどです。」
と、言い切った。
「因みに芥川龍之介も自殺で亡くなってます」
いろんな意味で絶句した。
この時に
「私は一生、太宰と芥川を読まない」と決めた。
理由は
「絶望だらけの作品が嫌いだから。
ただでさえ人生辛いのに、なんで小説まで辛いの読まなあかんねん。」
というこの理由だけで偏見を持ち、読まない人生でいた。
もちろん、この国語の先生はとても太宰が好きだろうし、当時の中学生に
「バビナール中毒」とか「処女性」だとかそういう単語使えないと思う。
今なら納得がいく。
この太宰治の人生を子供に語りかけるのは難しい。
で、この太宰がどんな人生だったのかどんな人柄だったのかを教わってから
「走れメロス」を習うのだが、
「いや、この話だけが明るいって言われたらこのメロスの話が頭に入ってこないわ」
と授業中にずっと思ってた。
次に高校生の時に
芥川龍之介の「或阿呆の一生」を習った。
太宰治の「人間失格」と同様、この作品もまた遺作だと教わった。
コケそうになった。
「なんでやねん。遺作って・・・」と。
この「或阿呆の一生」の中に有名な言葉が出てくる。
「人生は一行のボオドレエルにも若かない」と。
彼はボードレールという詩人をこよなく尊敬していたという。
この言葉を読んだ時に、私は静かにブチギレた。
「はぁ?ふざけてんなよ。ボードレールは素敵だろう。良い作品を生み出してきただろう。
お前の狭い了見でもの言うてんなよ。なに死んでんねん。
そんなところで諦めんなや。もっと生きてたら、
お前のいう「ボオドレエル」を超える一行に出会えたかもしれんねんぞ!
そんな図書館の上から眺めた時に世界の全部見たみたいに言うのはやめてくれ。
もっと広い図書館はある。世界はもっと広い。
お前も太宰も、こんなに後世に残るものを書く才能があるのに死ぬなよ!
なに死んでくれてるねん。事故死ならまだしも自殺ってどう言うことやねん」
この「或阿呆の一生」の中に中タイトルで「先生」と言うものがある。
これにも
「お前が慕う先生の夏目漱石のとこにいけーーーー!!!」
と思ってしまった。
と言うか多分授業中に叫んだと思う。
(周りに迷惑です)
今ならわかる。
私はきっとこの時から彼らが好きだったのだろう。
しかし、私のような捻くれ者は、この文豪たちに触れに行くことをしなかった。
因みに、直木賞、芥川賞を獲った作品も読まない。
理由はなんでかな?話題性のあるものっていうのが嫌いなんやと思う。
「流行ってるから読む」みたいなのが好きじゃない。
心から「読みたい」と思わない限りは読まないようにしてる。
で、又キッチーに戻ってくるのだが、
「火花」は、当時芥川賞をとったときに購入したが読まずに手放した。
けど、覚悟を決めて図書館で借りた。
俯瞰的に自分を見ても
「私はアホなんちゃうかな・・・?」と思った。
一応はストーリは大体知ってる。
火花まで読んできた彼の作品は小説ではなかったので、
「ここまで上手に文字で表現できる人が、純文学ってどんな表現するんやろう・・」
と気になった。
それが先月になる。
補足だが、私は大の漫才師好きである。
M1の歴代覇者とその漫才のネタは言える。
覇者だけじゃなく上位3位まで全暗記してる。(勿論ネタも)
だから、彼らが「ピース」としてようやく世に出てきたとき、私は又吉が気になった。
理由はとある番組で彼が話してる後ろに彼の本棚が映ってたのだが、
異様な量だった。
このときにはもう本を書いていて、書いてる本が自由律俳句のものだった。
【カキフライが無いなら来なかった】というもの。
本当にびっくりした。
私も俳句や、和歌が好きだから。
(与謝野晶子、種田山頭火あたりが好き。)
で、だ。
いろいろ話が飛んでいるが、
とにかくこの「火花」を読むのには相当な覚悟が私には必要だった。
今まで、私はあらすじを知り
「このストーリー読みたい!」とならない限りは読まなかったのに、
初めて、
「この人の文章が読みたい」と思ったのが又キチだったのだ。
作品ではなく、著者を見たのは初めてだった。
そして先月、私は火花の表紙をめくった。
「大地を震わす和太鼓の律動に、甲高く鋭い笛の音が重なり響いていた。」
から始まって最初の1ページ目で私の指は止まった。
次のページをめくれない。
あれ?おかしい。
もう一度最初から読む。
違和感を感じながら、ようやく2ページ目を読んだ。
また指が動かない。次のページをめくれない。
音がしない・・・。
そう思った瞬間に私は本を閉じた。
テレビやメディアにあまり出てこない作者ならわかる。
けど、彼の声を私は知っている。
あんだけテレビに出てるのだ。脳内で又吉の声を再生することができるぐらいに
私は彼の声の「音」を覚えてる。
著者の声を覚えてる時は、必ず、文章がその人の声が聞こえてきてた。
わかりやすくいうと、著者の声で脳内で朗読されてる感覚があった。
それなのに、この人の小説は音がしない。
慌てて彼の他の作品の「夜を乗り越える」を手に取って読んだ。
こちらは聞こえる。
随筆になると聞こえてくる。
私はもう一度、最初のページから読んだ。
・・・・聞こえないのだ。
ここまで、著者が著者の気配を消す小説を読んだことがなかった。
そこにあるのは、登場人物の
「徳永」と「神谷」の声だけだった。
その日のうちに読み終わり、私は眠ったが、
夢の中でずっと火花が流れていた。
火花の文章が流れていた。
多分、うなされてたと思う。
朝起きて、一番にまたもや読んだ。
最終のページを読んで、私は唸った。
唸り続けて、私は夫に聞いた。
「気持ちの整理ができないんです・・・・。こんなに気持ちをぐちゃぐちゃにされたことがなかったんです・・・どうしたらいいですかね・・・」
と体育座りをしながら聞いたら、
職場に行くために、ネクタイを締める夫は笑顔で言い放った。
「彩さん、直木賞、芥川賞というものはそういうことなんだ。」
私は、言葉を失った。
いや、勿論、大好きな東野圭吾も絶望を見せてくれるよ!そういう作品多いよ!
けど、なんやろう。この脳味噌をかき混ぜられてる感覚は。
その時、まだ自分の「虐待攻略」の執筆中だったので、
「この執筆を終えたら自分のご褒美に又吉の「劇場」を借りて読むぞ!」
と決めたのだった。
そして、執筆が終わったのが10月28日。
次の日に私は自転車を走らせて、図書館に向かい「劇場」を
借りた。
帯に
「一番 会いたい人に会いに行く。こんな当たり前のことが
なんでできひんかったんやろな」
と書いてある。
「劇場」は恋愛小説だ。
またもや、覚悟を決めて表紙をめくった。
「まぶたは薄い皮膚でしかないはずなのに、風景が透けて見えたことはまだない。もう少しで見えそうだと思ったりもするけど、眼を閉じた状態で見えているのは、まぶたの裏側の皮膚にすぎない。あきらめて、まぶたをあげると、あたりまえのことだけれど風景が見える」
この冒頭を読んだときに私は思わず吐いた。
どんだけやねん。キツすぎるわ!!
と思った。
何度も何度も途中でリタイアしそうになる気持ちを噛み殺し、
私は読み続けた。
そして読み終えて、眠ることにした。
またもや違和感がある。
ベッドの中で
「なんやろう・・・なんやろう・・・このなんか知ってる感じ・・・この「劇場」をどこかで読んだ気がする・・・どこやろう・・なんやろうこの気持ち・・・。
あの沙季の「殺されるかと思った」っていう言葉・・・どこかで・・」
と考えてたら寝てしまっていた。
朝起きたときに、
「もしかしたら、あれは・・・!!」と立ち上がり3階から2階のリビングに全速力で走って行き、とある本を勢いよく開いた。
その本は私が一番好きな又吉の「第2図書係補佐」
その中に、あったのだ、この言葉が。
その瞬間私は泣き崩れた。その場で声を出して泣いた。
「小説を書いてもいいよ。
自分のことすらも小説にしてええねんで」って言われてる気がした。
私は、小説を書いてた時期がある。でも必ず、自分とまるで関係のない遠い世界のことを書いてきた。
自分の生い立ちに近いものを小説にすることは汚いと思ってきた。
いけないことだと思ってきた。
だから必ず、漫画も小説も、自分とかけ離れた価値観のものを書き続けてた。
許された気がした。
今、お世話になってる出版社の編集長さんにも
「小説書いてくださいよ」と言われても絶対に嫌だと答えた。
泣きながら
私は、もう一度「劇場」を読んだ。
本当にきつい話だった。
辛すぎて辛すぎて涙が止まらなかった。
あまりの辛さに
「ばあああああ」という言葉が私の何かのスイッチになってしまった。