そもそも見ようとしてないんだよ。
ん?「消費者〜以下略」は?
いいの!書きたいのもを書きたいときに書くの!
じゃないと文章に嘘が入るから!
で、タイトルなんだけど、
何が見えてないかというと、
「虐待」っていうものが実は日常茶飯事に起きてるってことを
見えてない。見ようとしてない。
なんかニュースとかで取り上げられる
子供が亡くなってしまったり、
その「父」と「母」役になった人が殺人者となる
そのぐらい酷くないと
「虐待」って言っちゃダメみたいな風潮。
これね、認識してないの。
目の前にあるのにまるでないかのようにする。
お化けみたいな感じ。
いるっていう人もいれば、そんなのないっていう人もいる。
そしたら口ばかりの
「どうにかしなくては」という発言をしながらひたすら
排除しようとする動きになる。
認識して、
「それは起きているんだ。実際に存在することなのだ」と
捉えたときにようやく
「じゃあ、育児というものをどうやって変えていこうか。どうやったら未来で苦しむ人が0に近くなるだろうか。」
となる。
受け止めないと、その数を視野に入れないと、その数の数値をどうやって低くするかって考えれない。
「どうやったら虐待が起きないか」
じゃなくて
もう、起きてるのよ。実際。いっぱい。
起きてるの。
前提が「起きない」という0の状態で物事見てるんだよ。
「起きてる」という100以上とかわけのわからない数字になってること認めた上で
「今。こんだけの数だからこれをどうやったら減らしていけるか」
でしょ?
数が相当数あるのに0で見てる。
それを排除っていうの。
日本人お得意の
「必殺!異質なものは排除して無かったことにするの巻」
をずーーーーっとやってるのよ。
で、こんな発言をね、なんでこんな個人がしてると思う?
国に何でもかんでもお任せしますお願いします。でも文句は言いますっていう時代は
もう終わったよ。
抱えきれてないじゃん?
じゃあ今度は個人がする番でしょ?
今日まで、どんだけ国に守られてきたのよ。私たち個人は。
確かに税金払ってるよ。
でも、だからと言ってお金払ったからあとはお願いってなんか違うくない?
お金を払った責任を個人が払わなさすぎ。
「お金払ったからなんとかしてね」って都合良すぎない?
で、税金だけで、
国を動かしてなんとかしようなんて
私にはできない。
そこに少しもの情熱がなかったらできることじゃないと思うよ。
その必死にこの国を維持するために走ってきてくれた人がいたから
こんなにも日本は豊かになれたのよ。
そんで、この豊かさを享受することを当たり前と考えすぎだよ。
で、その国がもういっぱいいっぱいなわけじゃん実際。
その時に個人が立ち上がらなくてどうするの?
今までこの豊かさをもらってきたのよ。
次、返す番でしょ?
そう思ったから発言しようと思った。
自分のできる範囲のことから始めて、できることから声を出していこうと思った。
で、「虐待」を異質なものとして扱い、
「被虐待児」には憐憫という上から目線で「可哀想」と言い
「虐待者」にはこれでもかという被弾と言う名の殺人をする。
とにかく排除して否定して批判をする。
終わるものも終わらないし、
救われるものも救われないわ。
社会が作り上げた「ヒーロー伝説」に乗っかりすぎだと思う。
どこに悪者がいた?
それ、本当に悪者?
虐待した「父」と「母」が無意識の間にずっと
「虐待されてた被虐待児」だったら?
それ、本当に悪者?
で、さらにその「父」と「母」を育てた者も
「虐待された被虐待児」だったら?
ねぇ、それは本当にその個人の人格の問題?
ねぇ、それは本当にその個人の人格が悪い?
で、虐待された子供は本当に可哀想?
で、子供時代、虐待された大人は本当に可哀想?
なんで数が認識されないと思う?
自分が「親にこう言うことされてきました」と言ったら
近所から結婚した親戚から言った本人の取り巻く周囲から
「可哀想」と認定されて
「普通」じゃないと言う扱いを受ける。
せっかく幸せになったのに、また同じことになる。
次は社会からいじめられる。
平均的で普通の暮らしを目指して頑張ったのに。
だから大人になった当事者たちは声を出さないことを選ぶ。
社会が認めてくれる姿をひたすら演じることになる。
そしたら過去にそんなに虐待が起きてなくて
起きたとしたら人が死ぬとかそう言うレベルまで上げないと
社会は報道もしない。
「虐待」って言うのは社会が作り上げたんだよ。
「苦しい」「悲しい」「嬉しい」「幸せ」
と言う基準も社会が作った。
クライアントさんがよく言う言葉が
「こんなことで苦しいなんて言ってはいけないと思う」
自分が感じた感情を社会の認めた数値化と照らし合わせなくていい。
「苦しい」と感じたらそれは「苦しい」の。
比べるものじゃないの。
そう言う風にさ、社会に焦点を持っていきすぎるのもうやめにしない?
私はいつも思うんだけど、
国というものは最初私たち国民を守るために
「ルール」を作ったと思う。
けど、時が流れてその「ルール」に縛られて、それでも忠実に守ろうとする
その「ルール」を。
それが人を苦しめているのなら、もう捨てていいんだと思う。
そのルールに乗っかるか乗っからないかも、本当は各個人の自由なんだよ。
それは今ある制度、法律を全部フル無視って言いたいんじゃない。
制度も法律も「ルール」と呼ばれるもの全て、
「未来に持っていって子供に託したい」ものと
「未来に持っていって子供たちに残したくない」ものを
取捨選択し、個人が個人同士で話し合い、そしてその数を増やしていき
その世界を作っていくことなんじゃないの?
私は自分が経験したこの「虐待」というものを
既存のやり方ではないけど、でもどうにかして100年後に0になってほしいと思ったから、発信してる。
私のような子供時代を送る命をもう作らないでほしい。
あんな地獄を、
今生まれてる子供も、
これから先、生まれてくる子供も
誰一人として経験して欲しくない。
大人の仕事って一つだけだと思うよ。
「次の世代が安寧に生きている未来を作る。」
これだけだと思ってる。
大人が胸を張って
「めっちゃいいもの作ったんだ!聞いて」って心から誇らしげに語れる未来に
子供はワクワクするんじゃないの?
私はいつもそう思ってる。